精霊「あけら」、黄金町から大岡川を下る。 芸術家・金藤みなみ

精霊「あけら」、黄金町から大岡川を下る。 芸術家・金藤みなみ


赤い帆のような物が、悠々と川を下っている。よく見ると、中から顔を出している。すくっと背筋を伸ばして漕ぎながら、飄々と風にたゆたい、流れている。

「人は、育った家をかぶって生きていく。」と話す、精霊「あけら」を追いかけた。

金藤みなみ

1988年 徳島県出身。女子美術大学、多摩美術大学大学院卒業。韓国の弘益に留学した後に帰国。フィンランドや新宿、秋田などで「あけら」や新大久保でのデモなど、自らが扮装してパフォーマンスを行っている。

春が戻ってきたような空の下を、大岡川が流れている。

アートによる町づくりが進められている横浜市の黄金町では、若い芸術家が集い、餅つき大会やワークショップなどのイベントが開かれている。アトリエのような店の数々と、昭和のスナック街の趣とが交錯している。

猫達は大岡川のなだらかな流れのように、鷹揚としている。

カヌーを漕ぎ出す。


川の向かいから、壮年の男女のボートがやってきた。

「あらー!」「それが帆なの?」

人々が川に寄り、集まってくる。

警戒したかもめの群が飛び上がり、空に渦を作る。

私はいくつもの橋を乗り越え、走って追いかける。

大通りをぬけると、観覧車やランドマークタワーが目に入ってきた。


にぎやかに人波が押し寄せてくる。

カヌーは川面を切りさくように、波紋を広げていく。

  あけらは「歩く座敷童」

――――「あけら」とは、何ですか?

「あけら」は「座敷童」。英語だと、“Child spirits“って言うんですけど、人にって見えたり、見えなかったりする。そういう意味が込められているんです。座敷童は外から幸せを運んで来るものなのに、ずっと家に住みついているのはなんでだろう?って思って。だから外を歩いてみたんです。

人間だと、ずっと同じ家に住んでいる人って、実は少ないですよね。結婚したり、引越しで家を出ていったりする人がいる。そうして人は色んなところに行くんだけれど、どこに行っても、「家」を屋根のように頭に被っていると、思っています。家は、たまに負担になることもあるけれど、温かいし見守ってくれる感じがする。だから、この「あけら」の色は赤くて、屋根の形をしているんです。

映像で見ると分かるんだけど、人によっては、「あけら」が見えても見えないフリをする人もいる。画面を通して道行く人の姿を見るともともと「あけら」が見える人と、見えない人がいるように見える。フィンランドや新宿では歩いたんですけど、今回は、川のある横浜だから漕ごうと思ったことがきっかけです。

――――どうして「あけら」は歩いているのですか?

これは私の考えですが、「あけら」はどこかへ還ろうとしているのだと思います。裸足で歩いているのは、あけらにとってはどこでもそこが家だからではないでしょうか。日本には家では靴を脱ぐ習慣がありますし。

――――のっそり、のっそりとした歩き方に、理由はありますか?

私の生まれた徳島県では、毎年、夏に阿波踊りが行われます。

大勢の人々が練り歩くのを見て、普段見慣れている街が異化されていると感じました。街が脈打って生きている感覚を味わいました。

金藤さんは、新大久保でもパフォーマンスを行っている。

新大久保ブーメラン デモ行進

―――デモでものっそりとした歩き方をしているのは、歩くことで何かが変わると感じたからですか?

歩く事で一番変わるのは歩いている本人だと思います。眼に映る景色が変わって行く。
人間の長い歴史の中では、定住よりも遊牧していた頃の方がずっと長いわけです。
どんどん入れ替えて行くと言う事はとても自然です。変わって行くことが丁度いい、身体にあった状態なのではないでしょうか。

―――デモって何でしょう?

デモというのは現象です。

歴史の中でずーっと行われているものなので、エネルギーのあるものだとは思います。
ただ、その列が何に固定化されているのかを考え、自分自身が本当に欲しい解放を常に疑った方がいいと思います。
もっと自身の中で動く筈がないものを動かして、スキップしたり、飛び跳ねてみたり、そろりそろりとしたりするように、色々と試し歩いてみるのがいいんじゃないかなと感じます。

―――パフォーマンスのきっかけは何ですか?

街にはこれだけ沢山の人がいます。自分から働きかけたら様々な反応が返って来て面白いだろうな、と思っていました。日本には沢山人がいて、反応の様子が大体同じなんです。同じであることが面白いし、集団としてのエネルギーを感じます。

「あけら」には2つのテーマがあります。1つは「oneness(一個性)」。

人の体は、代えがきかない唯一のものなのに、どんどん細胞が入れ替わっていく。毎日違う自分になっていく。明日の自分は、今日と同じ体じゃないということです。

――――何をきっかけに、そう思うようになったのですか?

私の家族は、四国で木を切って生活していました。8歳くらいの時に、叔父が木を切る姿を見て、「うっかり皮膚を削いでしまうのではないか」という恐れを抱いたことがありました。
親戚の中で甘えることが許される年齢では、もうありませんでした。従兄弟が10人以上いたのですが、男の親戚を鬱陶しく思い、理不尽だと感じていました。

木は大きくて、山は大きくて、どんなにしっかりとした叔父さんたちだって取り返しがつかないような怪我をする。どんな人だって身体はすぐに削がれてしまうと思いました。

体は本当に1つのものなのか。刻まれた体はどこにいくのか。それが、不思議なんです。

――――もし、体が切られるごとにバラバラになってしまうと思うと、命や精神はどこに宿っていくものだと感じますか?

身体が切られ始めた時は、あらがう為の強いエネルギーが出ると思います。
でも、だんだんとバラバラになっていく過程で、命や精神は抜け落ちて、少しは大地みたいなものに、少しはどこかに呪縛してしまうのではないかと思います。大地や森の中に溶け込めない、緑の反対色として、赤色の扮装をしています。

森の中のあけら(映像)

あけらのテーマの、もう1つは「objectivity(客観性)」です。

「あけら」を遠くから撮っていると、町が異化されて見えます。

遠くから見る人や周りの人の反応で、いつもある風景が、普段と違って見えます。それらの風景を写真や映像に収めることで、遠くから見ている人の反応も含めて、町の記録になっているのです。フィンランドでは、支えてくれた周りの人たちがとても重要で、新宿では、相手にされないということがとても重要でした。

今回、大岡川を下るにあたり、本当に色々な人に助けられました。街をつくる様々な人を思いながら橋の下をくぐる時に、水面がきらきらとして、風と水の力を感じました。

あけら(映像)

 (ドクガクテツガク編集部 かな子)

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